いつかまた科学哲学へ

ここ数日僕の周りでは、WiFiの脆弱性に関する話題が豊富です。一時期はこれまでのWiFi機器を全て捨ててしまう必要があるのでは、とすら言われていました。さっきまで安全であると信用して頼りきっていたものが、実は危ないものだと宣言される。あまり気持ちの良い体験ではありません。

こういう時に思うのが、自分の把握できている世界なんてごく一部なんだなということです。WiFiは日々使い倒していますが、その脆弱性云々などと説明されても理解できる話はほんの少しです。内容が曖昧なまま、常識として固めて自分の世界に取り込んでしまっているものが如何に多いことか。つらいです。

いまのご時世、そういう「生きてる世界の仕組みがよく分からない」という違和感を持つ人が多そうです。WiFiなどの技術的な話ではなく、もっと抽象的な部分でも。世界が複雑すぎて、自分のやっている仕事の価値が分からない。ひいては、自分の価値とは・・・。そういう風に悩み詰めている人はきっと大勢いると思います。

結果、木を切って売る!みたいな簡素で分かりやすい図式を魅力的に感じたり。移住する理由として現実味とか、シンプルさとか、そういうキーワードをちょくちょく聞くのはそういうことなんじゃないかと。村へ来てまだ半年ですが、実際東京の人からそういう相談を受けたりもします。身体的、瞬間的に理解できるものが希求されている向きがあるんじゃないかと。

しかし、そういった分かりやすさを希求するあまり、分かりやすい=正しい(分かりづらい=誤り)という構図を作りがちな点には気をつけないとなと思います。直感と反することが正しいこともあれば、直感で正しいと思っても誤りなことだってあります。モンティ・ホール問題とか未だにえ?ってなります笑

水素水なんかが一世を風靡したりするのはその一歩を踏みとどまれないからなんでしょうね。マイナスイオンとかもう否定する人も居なくなりましたし。こういうものは「別に正しくないだろうけれど、心地いいから」と思っているうちは良いですが、気づけば「むこう側」の論理に取り込まれてたりするので注意したい。

自分の脳味噌では理解できない難解な世界に生きているということを前提に、その難解さが不快であるがゆえに単純明快な答えというものが魅力的に見えてしまうということを理解し、諦めず、うまい具合にバランスを取りながら生きていきたいものです。これから先も、肌感覚というものを重要な羅針盤として扱っていきたいからこそ。