宗教と原則

ある飲み会で、宗教の話が盛り上がりました。宗教や宗教的なものへの敵視、蔑視があるという前提の上で、その反論として「宗教は悪くない」ということを結構みんなで論じてた。

宗教は、日常の延長では理解できないものへの解を与えてくれます。それが重要な価値なんだ!というのがひとつ重要なポイントでした。人知を超えた悲劇など、ひとは自分の範疇外の世界と対峙を迫られることが多く、そのストレスから逃してくれるのが宗教だということ。

わからないものに自分なりの答えを見つけるという文脈では、宗教的なものはいまの時代と非常に相性がいいなあと思っています。多様な価値観を持つ人達が、それぞれの世界を発見し、個別に維持できる技術が発展しているので。SNSに代表される、インターネットというやつの功績。

ただ一方で僕は「皆がそれぞれ信じるものを持ってお互いに干渉せず生きていけばいいのだよ!」みたいなのは引っ掛かるところがありすぎて、手放しに素晴らしい時代だなあと喜べないまま日々を過ごしています。それだけでは片手落ちもいいところではないかと。

不必要な排除を悪徳とする、多様性の維持される世界を保持するためには、多様性を破壊するもの、つまり不必要な排除を行う存在を徹底的に排除しなければなりません。排除を悪徳とする世界が排除するのかよ!というツッコミがよくありますが、世界の「原則」を攻撃するものは排除されてしかるべきです。

それは非常に暴力的な行為です。だからこそ、その「原則」というものが何なのか?という議論は非常に重要で、慎重になされる必要があります。多様性を愛せよと説く人は、ただ多様な価値観を紹介するのではなく、守るべきものは何なのか?多様性の敵とは何なのか?という「原則」の解明にこそ時間をかけるべきなのです。

ところで、この「原則」にあたるものは、理解の範疇を越えるものばかりです。原則とはそういうものだから当然です。人を許せ、人を敬え、生きろ。気にならない時は全く気にならないけど、重要な時に限って疑問符がついてしまいます。困窮している時、怒りが収まらない時、悲しみに沈んでいる時なんかは、なぜそれが「原則」なのか理解できないことがしばしばです。

ここで宗教の話に戻るのですが、宗教的なものは、理解できないものへの解を与えるのが得意です。だからこの「原則」を破壊するチカラになりやすい。

僕はこれが怖い。

僕の信じる「原則」が、すぐに破壊されてなき者にされてしまいそうな不安定さを感じています。宗教や宗教的なものは別にあっていいし、宗教だからダメだとかいうのは馬鹿げてます。でも、それは「原則」への深い理解と愛が前提としてあってこそ。どうもその辺、最近の世間様ではバランスが悪いように感じています。

たとえば生命は何の理由もなく大切だということを、疑いようのない根底におく社会にしたい。そのために、それを否定しかねない価値観には容赦なく挑戦状を叩きつけるようにしていきたい。ってことなんですが。