怖いのは何のためらいもなく他人のためと言えるひと

だいたいにおいて「自分」が最高に楽しい、幸せであるというのを追い求めていくのが良いです。世の中はコントロールできないものばかりだけど、その中で「自分」はまだ比較的コントロールが効く側にありそうだから。何かを罵ったり、責めたりという機会も減るでしょう。

ただ、「自分」が楽しくなる方向にチカラを尽くすには「自分」という羅針盤が正しいと自分で信じる必要があります。この条件は結構ひとによって違いそうだけど、自分のことばかり考えて他人/世界と解離してしまっては…みたいなところがブレーキになる例をよく見ます。

でもそういう人の「自分」には、だいたい「他人/世界」がいい具合に溶け込んでいます。不可分なくらい。あまり気にする必要はないだろうなあと、傍目から見ながら思うことばかりです。あなたの持っている「自分」の幸せは、たぶんそんな破滅的なものではないです。

僕の周りにいるひとは、そういう「自分」の持ち方をしている。優しい人達ばかりに囲まれて生きてきたようです。

宗教と原則

ある飲み会で、宗教の話が盛り上がりました。宗教や宗教的なものへの敵視、蔑視があるという前提の上で、その反論として「宗教は悪くない」ということを結構みんなで論じてた。

宗教は、日常の延長では理解できないものへの解を与えてくれます。それが重要な価値なんだ!というのがひとつ重要なポイントでした。人知を超えた悲劇など、ひとは自分の範疇外の世界と対峙を迫られることが多く、そのストレスから逃してくれるのが宗教だということ。

わからないものに自分なりの答えを見つけるという文脈では、宗教的なものはいまの時代と非常に相性がいいなあと思っています。多様な価値観を持つ人達が、それぞれの世界を発見し、個別に維持できる技術が発展しているので。SNSに代表される、インターネットというやつの功績。

ただ一方で僕は「皆がそれぞれ信じるものを持ってお互いに干渉せず生きていけばいいのだよ!」みたいなのは引っ掛かるところがありすぎて、手放しに素晴らしい時代だなあと喜べないまま日々を過ごしています。それだけでは片手落ちもいいところではないかと。

不必要な排除を悪徳とする、多様性の維持される世界を保持するためには、多様性を破壊するもの、つまり不必要な排除を行う存在を徹底的に排除しなければなりません。排除を悪徳とする世界が排除するのかよ!というツッコミがよくありますが、世界の「原則」を攻撃するものは排除されてしかるべきです。

それは非常に暴力的な行為です。だからこそ、その「原則」というものが何なのか?という議論は非常に重要で、慎重になされる必要があります。多様性を愛せよと説く人は、ただ多様な価値観を紹介するのではなく、守るべきものは何なのか?多様性の敵とは何なのか?という「原則」の解明にこそ時間をかけるべきなのです。

ところで、この「原則」にあたるものは、理解の範疇を越えるものばかりです。原則とはそういうものだから当然です。人を許せ、人を敬え、生きろ。気にならない時は全く気にならないけど、重要な時に限って疑問符がついてしまいます。困窮している時、怒りが収まらない時、悲しみに沈んでいる時なんかは、なぜそれが「原則」なのか理解できないことがしばしばです。

ここで宗教の話に戻るのですが、宗教的なものは、理解できないものへの解を与えるのが得意です。だからこの「原則」を破壊するチカラになりやすい。

僕はこれが怖い。

僕の信じる「原則」が、すぐに破壊されてなき者にされてしまいそうな不安定さを感じています。宗教や宗教的なものは別にあっていいし、宗教だからダメだとかいうのは馬鹿げてます。でも、それは「原則」への深い理解と愛が前提としてあってこそ。どうもその辺、最近の世間様ではバランスが悪いように感じています。

たとえば生命は何の理由もなく大切だということを、疑いようのない根底におく社会にしたい。そのために、それを否定しかねない価値観には容赦なく挑戦状を叩きつけるようにしていきたい。ってことなんですが。

止まない雨はない

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日本中を襲っている記録的な大雨ですが、西粟倉も例外ではありませんでした。僕の知る限りだけでも、川沿いの道路が土台から崩落していたり、土砂崩れで通行できなくなっていたりと、様々な影響が出ています。

谷口地区の消防団は7月6日19時頃より出動しました。結果的に家へ帰れたのは7月7日13時だったので、18時間弱くらい活動していたことになります。ベテランの方に聞いても、西粟倉でこんな出動は記憶にないとのことです。

f:id:tabata-sunao:20180707181451j:plain 土のうを積み上げて、家への浸水を防ぐというのが主な活動内容でした。

f:id:tabata-sunao:20180707181506j:plain 最初は「これが今回一番大変なところかもなあ」と思ってました。甘すぎました。

f:id:tabata-sunao:20180707181518j:plain こういう状態があちこちで。水量が多く、岩も流れてくるので止まらない。

f:id:tabata-sunao:20180707181531j:plain 雨ってこんなに怖いもんなんだなあ、とひしひしと感じました。

f:id:tabata-sunao:20180707181550j:plain こんな道路が多く、場所によっては膝まであるところも。土のうで戦いました。

幸い今はだいぶ落ち着きましたが、役場は休み無しに対応を続けていますし、土建屋さんもフル稼働で土砂撤去にあたられていました。それ以外も大勢の人達が気を張り続けているのは想像に難くありません。特別にどうこうではなく、渦中にいるだけでかなり消耗が激しいと思います。お疲れ様です。

既に山の状況についても幾つか連絡が来ていますが、どうも長期戦になりそうです。じっくり腰を据えて付き合っていきましょう。

道路愛護デー

今日は西粟倉で「道路愛護デー」にともなう道路掃除がありました。住民総出で道路掃除をします。都会のみなさんは、グリーンバードのゴミ拾いをイメージしてもらうと良いかも知れません。ただ手に持つのは空き缶を片付けるトングではなく、道へ侵入してくる雑草と戦う刈払機ですが。「チュイーーーン」と音を立てながらみんなで頑張ります。

これはたぶん、地域を維持するコストというのを直接的に住民が負担する仕組みなんですよね。都会だったらプロにまかせてお金を払っておしまいだったりすることがホトンドですが、田舎は人口もお金もあまり無いのでかなり直接的なカタチで住民がそのコストを支払わないと維持できない。

ただ都会でそんな経験がない人からすれば、そのコストがかなり過大なものに感じられることも多いと思います。なんで俺がわざわざ道路掃除を?っていうのは都会だとわりと自然な思考ですから。田舎は謎のしきたりがあるから嫌だというのは良く聞きますし、人口流出の要因だったり、移住を困難にしている原因のひとつだったりするんでしょう多分。

そうして田舎の人口が減ると、加速度的に地域を維持するために支払う一人あたりのコストは上がっていきます。西粟倉消防団の定年が上がり続けているのは、たぶん良い事例。これからも人口の二極化は進むと思うのですが、地域を維持するコストはきっと天井知らず。何もしなければ待ってるのは破滅です。

つまり田舎を維持するには、コストの支払い方法を公正で効率的なものにするのはもちろん、コストを支払うことで得られる価値をしっかりと提供しなければなりません(もしくは根本から構造を変えるか)。そしてコストを払うことで主に得られるのは「地域への所属感」だと思います。この場所に住んでてよかった、というやつ。その価値を上げるのは雇用だったり、文化だったり。

山や森といったものがそれに見合う魅力になるには、どうしたらいいだろうか…みたいなことを考えながら溝掃除をしてました。なかなか難しいですが、きっとあるだろうなあという気がしてます。気のせいじゃないと良いなあ。

何もしないという選択について

試合の展開を予想して、西野さんの戦術が正しかったかを検証できるシートをつくりました。

あのまま”普通に”試合してたらどうなってたかなー?というのを確率で予想して、その上で西野さんの戦術が正しかったかどうかを検証するという遊びです。「条件入力」シートに予想を入力して、「出力」シートで西野さんの戦術が正しかったどうかを確認してみてください。

ふだんはサッカー観ないし、ワールドカップもそこまで興味があるわけじゃないんですが、昨日はなんとなく仕事しながら眺めてました。そしたらメチャクチャ格好いい展開になったので、ちょっと確認しておきたいなと思った次第です。

コントロールできないからといってリスクが高いわけではない、なんて頭では分かるけどよく決断できるなあというのが率直な感想。試合観に行ったひととかは不完全燃焼だろうけど、リスクのとり方がすごい。ちょっと感動しました。

何か間違ってたりしたらすみません、コメント頂ければと思います!

他者を認めること

「私は相手のことを認めている、ただ違う考えなので距離を置いているだけだ」

まるで多様な価値観を受け入れているかのように見えるこの文の前半部分は、ただの修辞です。あってもなくても変わらない、心地よいだけの言葉。

他人を認めたり受け入れたりする社会とは、ただ異質なものと距離を取る社会とは違います。他の存在と積極的に関わりにいかなければなりません。

たとえば日本人はよく「日本はあらゆる宗教に寛容だ」と言いますが、これは正しくありません。ハラルフードの入手が如何に困難なことか。

本当にあらゆる宗教に寛容であるには、どの宗教もその信仰を守ることができるよう土壌を整えるのが道理でしょう。

郷に入っては郷に従えとばかりに「貴方が勝手にやりたいことなのだから、私はそれに関知しない」というのは全くの不寛容です。

もちろん、強制的にひとつの社会に閉じ込められるよりは良いかもしれません。しかし「マシ」なだけ。そんなに誇っていいものなのでしょうか。

異質なものは、往々にして弱者です。弱者は放置しておくと滅びます。本当に相手の存在を認めるのならば、守るために積極的に関わらなければならないでしょう。

相手を尊重するあまり、もしくは相手から尊重してほしいと求めるあまり、その前提が抜け落ちがちです。衝突を避けるのではなく、いかに優しく寄り添えるかを考えませんか。

これは自分らしく生きるとか、他人の目を気にせず生きるとかと背反する考えではないはずです。

みんなちがってみんないいという言葉で切り捨てるだけは、あまりにも愛がありません。