他者を認めること

「私は相手のことを認めている、ただ違う考えなので距離を置いているだけだ」

まるで多様な価値観を受け入れているかのように見えるこの文の前半部分は、ただの修辞です。あってもなくても変わらない、心地よいだけの言葉。

他人を認めたり受け入れたりする社会とは、ただ異質なものと距離を取る社会とは違います。他の存在と積極的に関わりにいかなければなりません。

たとえば日本人はよく「日本はあらゆる宗教に寛容だ」と言いますが、これは正しくありません。ハラルフードの入手が如何に困難なことか。

本当にあらゆる宗教に寛容であるには、どの宗教もその信仰を守ることができるよう土壌を整えるのが道理でしょう。

郷に入っては郷に従えとばかりに「貴方が勝手にやりたいことなのだから、私はそれに関知しない」というのは全くの不寛容です。

もちろん、強制的にひとつの社会に閉じ込められるよりは良いかもしれません。しかし「マシ」なだけ。そんなに誇っていいものなのでしょうか。

異質なものは、往々にして弱者です。弱者は放置しておくと滅びます。本当に相手の存在を認めるのならば、守るために積極的に関わらなければならないでしょう。

相手を尊重するあまり、もしくは相手から尊重してほしいと求めるあまり、その前提が抜け落ちがちです。衝突を避けるのではなく、いかに優しく寄り添えるかを考えませんか。

これは自分らしく生きるとか、他人の目を気にせず生きるとかと背反する考えではないはずです。

みんなちがってみんないいという言葉で切り捨てるだけは、あまりにも愛がありません。