地獄への道

地獄への道は善意で舗装されている。学生時代、国立療養所である多磨全生園でハンセン病についお伺いした時によく思い出した言葉です。らい病の差別についての話も心には残りました。しかし、より衝撃を受けたのは「患者さんにより良い治療を受けて貰いたい!」と一般的には善良とされるであろう動機で動いた人達の話です。彼らの「愛ある」運動の結果、一生を隔離施設に閉じ込められ、治療薬がありながら与えられず、誰にも顧みられぬ劣悪な環境で過ごす人達がいた。確かに、地獄への道は善意で舗装されていたのです。

では、自分の善意が地獄へと通じないようにするにはどうすればいいのか。相手のことを考えながら正しい情報を得るようにして…なんて思ったりしますが、当時の話を聴く限りその辺のハードルは超えている人も多かった様子。つまり中途半端な気持ちではダメで、そして生半可な知識でもダメで。善意というのは中々に扱いが困難な凶器です。未だにどうすればいいのか不明なことが多いですが、僕が現時点で持っている方針は、美談からは距離を置くこと、問題の構造を意識すること、そして渦中の人とよく時間を共有すること。

そんなことを言っていたら何もできないという話もありますが、地獄への歩を進めるよりは一度立ち止まって深呼吸でもした方がいいのでは、とも。たぶんUXデザインとかと指向性は似てるんじゃないかなと考えてます。ちなみに西粟倉のような小さな村を相手にすると、比較的それぞれの人達と時間を一緒に過ごしやすいので良いなと思います。難しいのは、例えば50年後の主役になるだろう人達とは一緒の時間を過ごすことができないということ。山の経営には彼らとともにありたいですが、彼らはまだ生まれてないですから。未来に向けた善意というのが空振りしやすいのは、そういうことなんですよね多分。