ある知人の管理するアパートメントというウェブマガジンがあります。人間が生きる上では不必要なんだけども、人によっては大切にしなければ生きている意味がないような、感情のひだとも呼ぶべきものが集積されたメディアです。
その中から、ある記事の一節を。
死の遥か先、言葉では到底言い表せないような「途方もない時間の厚み」のようなものを強く感じた時 「結局ぜんぶどうなるの?」という問いがあまりにも意味不明すぎて、一種のパニック状態のようなものに陥った。
この記事自体の後半は僕には難しい感覚ですが、この「結局ぜんぶどうなるの?」という問いはとても馴染み深く共感できるものでした。確かドイツ語かなんかで該当する言葉があったはずだけど、「永遠に襲われる」という言葉はとても親しみやすい。これから使わせてもらいます。
僕が最初に永遠に襲われたのは、子ども向けの大百科みたいな本で太陽が数十億年後に地球を飲み込むということを読んだ時でした。永遠に続くものが存在しないということ。それは自分という個だけに留まる話ではなく、あらゆるもの全てにおいて適用されるということ。そして、それでも時間というのは存在し続けるだろうこと。ひたすらに恐怖でした。
それはもう圧倒的な事実として僕の前に立ち塞がり、寝ても起きてもそのことが気になりました。一度そのことを考えはじめるとまともな人間としての生活が送れなくなるので考えないようにしましたが、人生の矮小さ、それを包み込む世界の矮小さ、永遠の恐ろしさというものは、今でも確かに自分の身体感覚に深く深く刻まれています。
今でもたまに襲われたりします。自分ならまだしも、世界の無意味さに押し潰されそうになったりして。まあ昔ほど頻繁でもないですし、昔ほど無力でもないですが。きっと子どもがいる人達はもっと強いんじゃないかという気がしたりもします。
とにかく、永遠のような絶対的な無意味さ、圧倒的な膨大さに対して、考えてもしょうがないと目を瞑ることもできます。しかし、そういうのを見た上で、それでも敢えて!というところに、人間というものの愛おしさが出てくるのかなという気がしています。そういうものに、僕はなりたい。いつかそのうち。
「たとえ明日世界が滅びると知っても、私はリンゴの木を植えつづけるだろう」